アメリカ大統領選挙の討論会の中継をラジオで聴いてしまいました。ある評論家が「ガチのプロレス」と評しある新聞社は「子どものケンカ」と書いたあの討論会をです。トランプ氏とバイデン氏の早口の応酬をそれぞれの同時通訳者がたどたどしく追いかけます。ラジオで聴いていると(テレビでも同じですが)4人が同時に話しているわけで、おまけにそこに司会者も割り込んでくるので、もう何が何だか分からない状況になってしまいました。「プロレス」とは言い得て妙だと思います。
「どうして二人は人の話を聞かないの?」と子どもに質問されたらどうしましょう? 答えに窮してしまいますね。人の話はちゃんと聞かなきゃね、としか言えませんね。
ここからは大人の話。
ただ、トランプ氏とバイデン氏の関心事は自分の主張をアピールし相手に対する優位性を示す(もしくは相手をおとしめる)ことにあるわけですから、最初から相手の話を聞く気などありません。相手の話をうんうんと聞いてしまった時点で負けですから、政治家の討論会とはこんなものだと割り切るべきです。ふたりは自分のミスを認めようとしないし、自分の考えを変えようとは思っていないのですから。
大統領候補たちの討論に私たちが不快感を感じるのは、本来あるべき「対話」を念頭におくからです。対話とはこうあるべきだという理想の高みから二人の「プロレス」を見下ろすから、不快感を感じるのです。
あの二人は対話をしようとしているのではないと分かれば、案外冷静に聞くことができるものです。
ひるがえって、本来あるべき対話とはどんなもの でしょう。対話の弁証法というのがあります。自分はAという意見を持っている(正)、一方相手はそれとは違うBという意見を持っている(反)、自分はAという意見を信じていたけれど、Bのいうことにも一理ある、いろいろ考えてみると自分の意見の弱さに気付いてきた。Bの考えも取り入れてみたらより深い考えに到達した(合)。 この正ー反ー合の流れが弁証法と言われています。自分一人で考えたことは、まあそれだけのことですが、他の考え方に触発されて鍛え上げられた考えは、もはや最初の考えを大きく超えてより高いレベルの考えに到達している、ということです。対話によって自分は変化するし、高められるのです。
ただ残念なことに、私たちは往々にしてこの対話が苦手です。まず、そもそも自分の考えを変える気が初めからないという場合は、もう初めから対話は無理です。それではトランプ氏と同じになってしまいます。案外そういう大人は多いような気がします。
相手の方が自分より良いアイデアを持っていると信じてみるのはどうでしょう?ひとまず相手の意見を聴いてみようとなるのではないでしょうか。
次に相手の意見に納得させられてみましょう。なるほど確かにそうだとか、そういう意見もあるよね、と納得するのです。
相手に興味を持てるようになることも大切です。そのためには自分の感性に頼りすぎない方がいいかもしれません。例えば、何かの拍子にブロッコリー料理の話になったとします。すると、「私ブロッコリー嫌い」と言い出す人がいたりします。会話はそこでブツ切れ。あなたの好き嫌いは聞いてません、と言いたくなるわけですが、もしここで「私ブロッコリー苦手なんだけど、どういうところが好きなの? おいしくなる料理ある?」と聞いたとしたら、この人は相手の返事いかんではもしかすると苦手を克服するやもしれません。もしこの人が今晩ブロッコリー入りのドリアを作ったとしたら、もう昨日までの自分とは異なる自分に成長したと言えます。
成長できる人は対話ができる人。対話ができる人は自分を変えられる人。自分を変えられる人は他人に興味を持てる人。他人に興味が持てる人は成長できる人。